井上ひさしは社会に対して積極的に行動し、発言しました。コラムやエッセイに書き、インタビューや講演で語ったことばの中から<今を考えるヒント>をご紹介します。

  2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(5)

  ポツダム宣言<こういう条件の下だったら日本を攻撃しません、戦争をやめましょう>という国際条約を提示され、日本が受諾した。受諾したということは、ポツダム宣言の第一〇項にある<戦争犯罪人は裁かれなければいけない>ということも、日本は認めたわけです。認めて、しかもその裁判を日本人がやらずに、結局アメリカ主導の連合国がやってしまった。そこにいろんな問題が起きてきましたが、日本はサンフランシスコ講和条約で独立するときに、いろいろ矛盾のあった、いいところもあれば悪いところもあったその裁判を、受け入れた上で独立しますという国際的な約束をしている。
  戦後、日本と中国が国交を結ぶときに田中角栄さんが行って最初に共同声明が出ますが、中国側は(韓国、あるいはアジアも全部そうですが)、東京裁判の結果を認めたサンフランシスコ講和条約を日本国民が受け入れる限りにおいて仲良くしましょうと。そのときに中国は賠償をすべて放棄したんです。これは皆さん忘れていますが、賠償金を取らないというふうにした。
  何年前でしたか、わりと公式な団体で僕が中国に行ったときに、向こうの偉い人と会って、それでなんとなく「私たちのちょっと上の世代が大変ご迷惑をおかけしました」と言ったら、
  「何をおっしゃいます日本人。日本の国民も中国の人民も全部あのときは被害者でした。悪いのは、あの東京裁判で裁かれた人たち。それからB級戦犯、C級戦犯の人たち。あの人たちがいろんな事情で国を誤ったほうへ引っ張っていって、中国もアジアもみんな被害を受けました。あなた方は日本人だけれども被害者でしょう。中国の人民と同じなんです。だからそんなに頭を下げる必要はありません」ということを言われたんです。向こうの偉い人というのは周恩来です。

  中国はサンフランシスコ講和条約で東京裁判の結果を受け入れた日本人をそのまま受け入れた。ところが日本側は一九八〇年代に、国際的な取り決めの中であの人が悪かったとされた何人かを神様に(*靖国神社に東京裁判のA級戦犯を合祀)しちゃった。それもこっそりと。
  だからあれは内政問題じゃないんです。日本と仲良くする、賠償も金も要りません、これから友だち付き合いをしていきましょう、サンフランシスコ講和条約を締結した日本を認めて、それを受け入れるという条件ですから。それでなければ中国は国交回復しなかったかもしれません。そういう前提を日本人が断りなしに壊しちゃった。

  <東京裁判の結果を日本人は容認します>という前提を否定するようなことが起きた。これは国際社会、とくにアジアの近隣諸国に対して、あいつら(A級戦犯)はよかった、あんた方はいじめられて当然だったということになる。だから怒っているわけです。

  僕は当時の日本の大人たち、みんなそれぞれ責任があると思います。とくにわりと言われていないのは、裁判の審理で欠落した部分があるということです。
  たとえば満州の731石井部隊。細菌戦の研究をアメリカが裁判に取り上げない代わりに、研究結果を全部寄こせという取り引きがあった。だから満州での人体実験などの問題は裁判に上がってこなかったのです。
  もう一つは、陸海軍の作戦、立案を担当する参謀たちの責任が追及されなかったことです。いろんな参謀の日記が残っています。彼らも職業上ちゃんと日記をつけなければいけなかったのです。
  今も僕は高山信武という当時の大本営の参謀の日記をずっと読んでいますが、とにかくこの人たちが企画をして、それで上は、ちょっと字句を直す程度。ここは仮名遣いが違うんじゃない?とかその程度です。
  実は参謀たちが日本の進路を決めていた。参謀が決めたものを、総長は宮様ですし、ちょっと手直ししたぐらいで全部追認していくんです。
  今のお役所を見てもそうでしょう。
  起案するのはみんな、役所の中堅のちょっと上ぐらいの人たち。彼らがその場の空気を読んで立案をする。上司である市長さんなんかは一日一〇〇個ぐらい判子を押していくわけでしょう。そういう立案をしていながら、戦後になると今度はGHQに協力した参謀たちがいっぱいいるんです。そういう人たちが追及されてない。
  若手のバリバリの官僚の上げてくる、まったく机上の空論をそのまま追認していった上の人たちに一番責任があるのではないかと思っています。それをテーマにいま芝居を書いています。
(2006年5月3日 於;紀伊國屋ホール)

ブックレット「この日、集合」(金曜日)
当時の日本の大人たちには、それぞれ責任があると思います。 より抄録


    

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 2007年NHK「100年インタビュー」
笑いとは何か
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 1987年執筆
あまりの阿保らしさに
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 2001年「日本語講座」より
諭吉が諦めた「権利」
「日本語教室」(新潮新書)に収録


 1989年執筆
作曲家ハッター氏のこと
「餓鬼大将の論理エッセイ集10」
(中公文庫)に収録


 仙台文学館・井上ひさし戯曲講座「イプセン」より
近代の市民社会から生まれた市民のための演劇
「芝居の面白さ、教えます 海外編~井上ひさしの戯曲講座~」(作品社)に収録


 2005年の講和より再構成
憲法前文を読んでみる
『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社 2006年刊)に収録


 1998年5月18日 『報知新聞』 現代に生きる3
政治とはなにか
井上ひさし発掘エッセイ・セレクションⅡ
『この世の真実が見えてくる』に収録


 2004年6月
「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」小森陽一対談集
(シネ・フロント社)より抜粋


 1964〜1969年放送
NHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』より
『ドン・ガバチョの未来を信ずる歌』


 2001年11月17日 第十四回生活者大学校講座
「フツー人の誇りと責任」より抜粋
『あてになる国のつくり方』(光文社文庫)に収録


 2007年執筆
いちばん偉いのはどれか
『ふふふふ』(講談社文庫)、
『井上ひさしの憲法指南』(岩波現代文庫)に収録


 2009年執筆
権力の資源
「九条の会」呼びかけ人による憲法ゼミナール より抜粋
井上ひさし発掘エッセイ・セレクション「社会とことば」収録


 1996年
本と精神分析
「子供を本好きにするには」の巻 より抜粋
『本の運命』(文春文庫)に収録


 2007年執筆
政治家の要件
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年執筆
世界の真実、この一冊に
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 戯曲雑誌「せりふの時代」2000年春号掲載
日本語は「文化」か、「実用」か?
『話し言葉の日本語』(新潮文庫)より抜粋


 1991年11月「中央公論」掲載
魯迅の講義ノート
『シャンハイムーン』谷崎賞受賞のことばより抜粋


 2001年8月9日 朝日新聞掲載
首相の靖国参拝問題
『井上ひさしコレクション』日本の巻(岩波書店)に収録


 1975年4月執筆
悪態技術
『井上ひさしベスト・エッセイ」(ちくま文庫)に収録


 講演 2003年5月24日「吉野作造を読み返す」より
憲法は「押しつけ」でない
『この人から受け継ぐもの』(岩波現代文庫)に収録


 2003年談話
政治に関心をもつこと
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「フツーの人たちが問題意識をもたないと、行政も政治家も動かない」より抜粋


 2003年執筆
怯える前に相手を知ろう
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 1974年執筆
謹賀新年
『巷談辞典』(河出文庫)に収録


 2008年
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『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2008年
わたしの読書生活
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年
生きる希望が「なにを書くか」の原点
対談集「話し言葉の日本語」より


 2006年10月12日
日中文学交流公開シンポジウム「文学と映画」より
創作の秘儀―見えないものを見る


 「鬼と仏」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(1)~(5)


 「核武装の主張」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


 「ウソのおきて」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


  2007年11月22日
社団法人自由人権協会(JCLU)創立60周年記念トークショー
「憲法」を熱く語ろう(1)~(2)


 「四月馬鹿」2002年執筆
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文藝春秋『「井上ひさしから、娘へ」57通の往復書簡』
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 「情報隠し」2006年執筆
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 2008年3月30日 朝日新聞掲載
新聞と戦争 ―― メディアの果たす役割は
深みのある歴史分析こそ


 2007年5月5日 山形新聞掲載
憲法60年に思う 自信持ち世界へ発信