2003年5月24日「吉野作造を読み返す」より
憲法は「押しつけ」でない
吉野作造博士が言うのは、憲法は国民が時の政府に向かって発する命令です。だから憲法は国民の側から時の政府、これはいろいろ政権が変わりますが、とにかく時の政府に向かって発している命令の束です。法律は時の政府が国民に発する命令の束です。常に憲法は法律に優先する。いま僕らはそれが常識みたいに思っています。そして政府の法律が国民が発している命令に合っているかどうか、それを試すためにもう一つ司法が必要である。つまりいまでいう最高裁判所です。
日本の最高裁判所は戦後できて、あまり仕事をしていませんが、本当はもっと仕事をすべきです。政府がつくる法律が憲法と整合性を持っているのか、違うのか合っているのかということを国民に代わってやるのが、最高裁判所の本来の仕事です。だからわれわれは裁判官の審査をするわけです。なぜ裁判官の審査をするかというと、最高裁判所の裁判官たちは、政府がたくさんの法律をつくりますが、それは憲法の下位概念ですから、憲法に合っているかどうかを国民に代わって常にチェックしていくという仕事を本来しなければいけないからです。
これが吉野博士の中心的な考え方です。ただこれは当時としては、かなり危険な考え方です。いまは普通ですが、私たちが吉野作造さんのそういう基本的なことを理解しているかといえば、ちょっと疑問符が付くと思います。
昭和二十年から二十一年にかけて、新憲法の制定とかいろいろなことがありました。いま日本国憲法が「押しつけ」であると言う論者がかなり増えてきましたが、これは全く卑怯な、しかも実情に合わない俗説です。
というのはポツダム宣言、あれは条約ですが、あの中に日本の「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」と書いてあります。日本は戦争に負けたために、あの条約を受け入れた以上、あそこにあるものを全部実行しないと条約違反ですが、日本にかつてあった民主主義的傾向を復活させろというのも条件の一つです。
それが何を指すかというと、大正デモクラシーです。実は第一次世界大戦が終わって、あまりにひどい戦争だったのでみんながショックを受けて、国際連盟ができます。ペンクラブもそのへんにできたのですが、世界がもう戦争をしないで、話し合いで全部すませていこうという大きな世界的な流れができたときに、日本にもデモクラシーという大きな波が、それまでの準備で盛り上がったわけです。
それがやがて昭和に入って、統帥権の独立、つまり天皇あるいは宮中と軍部がじかに国の運命を決めていくようになる。満州事変で関東軍が独走しますよね。これはいろいろな問題があったのですが、独走したのをよくやったと勅令で天皇が認めます。そうすると軍部は、満州事変のように自作自演でほかの国へ攻めていく方法を天皇が認めてくれたので、それからは功名争いみたいに、どんどん軍部が独走していくわけです。だから昭和天皇に責任があるとすると、その一点です。満州事変を勅令で認めてしまったというところは昭和天皇の責任だろうと僕は思います。それは昭和天皇個人というよりも、その周りです。
いずれにせよ、そのへんまでは吉野作造博士や河上肇博士、もちろん草の根に至るまで、大きな動きとして、国民一人ひとりの顔がはっきりしてきました。そして、たとえば吉野作造が言ったように、もう少し天皇のやり方を制限して議会と憲法でやっていかなければだめだ、政治は国民がもとになっていなければだめだという動きが、大正時代に盛り上がったわけです。ポッダム宣言はそれを指しているわけです。
だから押しつけというよりも、昭和二十年のころにかろうじて生き残った三十代後半、四十代より上の人たちは、それは昔あったことじゃないかという感覚だったのではないでしょうか。僕の表現で言うと、古い子守歌がふと聞こえてきて、そう、そういう時期が日本にもあったんだよということです。だからあの憲法を、世論調査で八〇%ぐらいの高い率で歓迎したわけです。そして戦争中のように、天皇とその周りがあまり権力をふるわないなら、あるいはほとんどふるわないなら天皇制を認める。そういう世論調査がたくさん残っています。
戦後、日本が日本国憲法を受け入れたのは、日本にはその下地があったからです。民主主義というか、当時は「民本主義」です。作造自身も後半には「民主主義」という言葉を思い切って使っていますが、そういう動きが作造をリーダーとして日本の各層にあったために、あの憲法をすんなりと受け入れたということだと思います。
『この人から受け継ぐもの』(岩波現代文庫)に収録
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