2008年
わたしの読書生活
「あなたの読書生活について教えてください」といったような質問用紙があちこちから送られてくる。今日も一通、届いた。そういった郵便物は片っ端から屑籠に捨ててしまうが、むろん他意はない。本を読むのはだいじな仕事、いわば変種の本読みであり、そんな人間の意見が役に立つはずはないから質問には答えない。
日中は赤鉛筆を手に本を読み、あやふやな頭を鍛えるために書庫でうろうろする。夕方は、引いた赤線の箇所をノートに書き写す。記憶力に自信がないから、ノートに憶えておいてもらうしかない。
書く作業は夜から夜明けにかけて。新聞の配達さんが来るころに床につき、寝台の横に積んでおいた本や雑誌や新聞などを読みながら睡魔の訪れを待っている。
今日の未明はまず玉木正之さんの『スポーツ解体新書』(日本放送出版協会)を手にとった。玉木さんによると、一九二〇年のアントワープ五輪のマラソン日本予選で、一位から五位までの入賞選手がすべて失格した。入賞者は人力車夫、牛乳配達、新聞配達、魚の棒手振りなどで、「脚力もしくは体力を職業とせる者」はプロである、五輪のアマチュアリズムに違反するという理由からだったそうだ。このおもしろい本には栞がわりに新聞記事の切り抜きが挟んである。
<防衛省は15日、航空自衛隊の基地警備用として購入した米国製の暗視装置136個が、偽物だったと発表した。米国で出回っているマニア向けの製品の可能性が高いという。……単価は1個約30万円で、契約額は約4100万円だった。>(読売新聞朝刊二○○七年十一月十六日付)
玩具みたいな道具でも基地の警備ができるんだ、自衛隊は器用だなと感心して次の譜本に手をのばす。一冊をまるまる読み通そうとしたりするとかえって眠れなくなるので、いろんなものをちょっとずつ読む。気を散らしたその隙間から睡魔が忍びこんでくるだろうという狙いである。
手にしたのは本ではなくて「全国革新懇ニュース」という月刊紙、経済アナリストの森永卓郎さんが語っている。
<この五年間で日本の名目GDP(国内総生産)は二十二兆円増えています。しかし労働者に支払われた報酬はこの間に五兆円も減っている。……この間に株主の配当は三倍に、大企業の役員報酬は二倍に増えている。……不公平な税制も格差拡大に拍車をかけています。庶民はこの五年間で所得税などの定率減税廃止などで五兆円増税されているのに、金持ちや大企業は1兆円も減税されている。……(これから)やらなくてはいけないことは消費税増税ではなく、金持ちや大企業から税金をとって庶民に配ることです。>(〇八年二月十日号)
わが国の株の配当金に対する税率が異常に低いのはよく知られている。配当所得一億円の者の税率を例にとれば、フランスが二八パーセント、アメリカとイギリスが二三パーセント、それに対して日本はたったの一〇パーセントである。小泉構造改革の実体は、わたしたちの国を「大企業と株式配当所得者の国」に改造しようというところにあったのではないかと思ったとたん起き上がって、仕事部屋のノートの棚の前へ行く。敗戦直後の昭和二十年秋、日本本土空襲の効果を調べにアメリカから調査団がやってきたが、そのときの『米国戦略爆撃調査報告書』からある一行を書き抜いていたことを思い出したのだ。文章を書き写すと、それがいつごろのノートのどのへんにあったかを手が憶えていてくれるからすぐ見つかる。
<大日本帝国は、保守派大資本家と急進的軍人の合名会社であった。>
なるほど。この言い方をかりると、現在の日本国は「大企業と金持ちの合名会社」ということになるかもしれない。
次に手にした『民主主義』という古本は、戦後すぐ社会科教材として配られたもので、中学生だったわたしもこの本で習った。なつかしさのあまり古書店で買っておいたものだが、著者は文部省である。
<……しかし、新聞や雑誌やラジオ(井上註・当時はテレビがない)や講演会などは、用い方いかんによっては、世論を正しく伝える代わりに、ありもしない世論をあるように作り上げたり、ある一つの立場だけに有利なように世論を曲げて行なったりする非常に有力な手段ともなりうる。もしも、自分たちだけの利益を図り、社会の利益を省みない少数の人々が、巨額の金を投じて新聞や雑誌を買収し、一方的な意見や、ありもしない事実を書き立てさせるならば、国民大衆が実際には反対である事柄を、あたかもそれを欲しているように見せかけることができる。そうして、国民の代表者(註・国会議員)がそれにだまされるだけでなく、国民自身すらもが、いつのまにかそれをそうだと思いこんでしまうこともまれではない。人々は、その場合、「宣伝」に乗せられているのである。>(教育図書株式会社昭和二十四年四月刊)
小泉構造改革を正しいと思いこまされたのは、大広告主たちに気兼ねしたマスコミの「宣伝」によるものだったかもしれない……そう思うとますます目が冴えてくる。こうして毎日、眠れない日がつづく。こんな読書生活を質問用紙に書きこんで送ったところで、だれの役に立つだろう。
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録
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