2002年執筆
鬼と仏
一九四五年八月六日、副島まち子さんは爆心地から二・五キロはなれた自宅で被爆した。ご主人は応召中、四人のお子さんを抱えた上、さらにその八月が第五子の産み月にあたっていた。この副島さんの手記「あの日から今もなお」(日本図書センター刊『日本の原爆記録』第九巻所収)は、その年のうちに十四万人(±一万人)の死者を出すという大虐殺の実情を冷静かつ正確に記録していて、いまは第一級の資料になっている。この本の中に、ヒロシマに大勢の泥捧が出没したと書いてある。彼らは半壊した家屋から家財道具を盗み出し、それでも足りずに屋根瓦を剥いで回っていた。こんな理不尽な、化物のような爆弾を市街地に投下したアメリカ政府も鬼だが、そのほかにも日本人の格好をした鬼が徘徊していたわけである。
二〇〇一年九月十一日、ニューヨークの世界貿易センターのツインビルに、テロリストによってハイジャックされた旅客機が二機、つづけざまに激突、六千人以上(正確なことはまだわかっていない)の犠牲者を出した。テロリストたちは人でなしだが、じつはいま、もっと非情な鬼が彼地を俳徊しているらしい。犠牲者の遺族を訪ねて、上等の木箱に詰めた土を見せる。そして神妙にこう切り出す。
「裏から手を回して、現場の土をなんとか持ち出してまいりました。ご遺体が発見されるまで、せめてこの土をお側にお置きになってはいかがでしょうか。いいえ、お金はいりません。実費をいただくだけでよろしいので……」
その実費とやらは二百ドル前後と聞く。
もっと手の込んだことを企むやつもいる。主役は聖書、それに『イエスの生涯』といった宗教書を添えて遺族を訪ねる。
「○○様(犠牲者の名前)、書籍のご注文をありがとうございました。代金引き替えでお願いいたします」
遺族は少し訝しく思うが、結局は亡くなったひとの遺品のように見えてきて、それらの書物を買ってしまうのだという。
どんな時代にも卑劣な人間がいて、わたしたちを絶望の淵に追い込むが、しかし副島さんの本には、行き倒れ寸前の彼女の子どもたちに南瓜の雑炊を恵んでくれた別の被爆者が出てくるし、またニューヨークの献血行列の写真を見たりすると、ふたたび希望が湧いてくる。この世にはたしかに鬼がいる。しかし仏さまのような人間もいないわけではない。もう、その仏に賭けるしかない。
『ふふふ』(講談社文庫)に収録
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