1974年執筆
謹賀新年
わたしには年賀状を暮のうちに書くという習慣がどうももうひとつぴんとこない。
なんで十二月のなかばころから「明けましておめでとうござい」だの「今年もよろしく」だの「元旦」だのと書かなくてはならないのか。これは日付を偽ること、すなわち一種の詐術ではないか。
なんて偉そうなことを言ったが、これはじつは強がり、ごまかし、もったいぶりで、書きたくても書けないのが実情である。
書くのがのろくていつもぎりぎりまで仕事が片づかない。それで年賀状を年内に投函できないのだ。したがって年賀状書きは正月まわしになるが、そのせいかどうか正月はあまりうれしくありませぬ。ぶつぶつ言いながら机にへばりつき暗い顔をして「明けましておめでとうございます」なんて書いております。
そんなとき、わたしはつくづく自分がイタリア人であったらと思う。
イタリアに生れていたら、年賀状書きはむろんのこと、手紙や葉書など一通も書かなくてすむのに。
なぜというと、これは最近イタリアに三ヶ月ほど滞在していた弟のはなしの受け売りであるが、イタリアでは常識で考えられないほど郵便物が遅れているそうで、なんでも、イタリア国内では郵便物が宛先に届くまで半年はかかるものと覚悟しなければならないという。
昨年おきたポール・ゲッティ三世誘拐事件のとき、犯人たちがゲッティ家に送りつけたポールの耳が二十日間で着いたのがスピード記録になったほどだから、そのスローモーぶりは想像を絶している。
そればかりではない。この間などは、郵便の山に音をあげた当局が「えい、もう面倒くさい」というので、その郵便物を直接にパルプ工場に送って裁断させる、という事件まで起っている。
こんなことを言ってはなんだが、半年待たないと届かない手紙に文句をいわない国民も呑気といえば呑気、郵便物をパルプ工場へ運ぶ当局も無責任といえば無責任なはなしである。
そういえばいつぞやのフランスのルモンド紙は「チベットを除けばイタリアは郵便で通信不能な世界で唯一の国」という論評を載せ、これに対しアメリカのタイム誌は「イタリアと一緒にしてはチベットが気の毒というものだ」と皮肉っていたが、とにかくこれは真実なのである。この郵便物の遅滞の原因は、超過勤務はさせないという当局の方針と、超過勤務をさせてほしいと要求しているイタリアの郵便労働者の計画欠勤戦術にあるらしいが、日本の郵便事情はこれに較べたらむろん段ちがいによい。だからつまり、年賀状などという虚礼も成り立つわけである。
イタリアの郵便事情はしかし、わたしの如きなまけ者の物書きには便利だろう。なにしろなまけるだけなまけておき、編集者から催促の電話が来たら、
「おかしいですね。あの原稿は四ヶ月前に速達で送っているはずですよ」
なんて答えておき、それから書いて、出版社へ持って行けばいい。
「仕方がないからもういちど書いて持ってきましたよ」
と、恩着せがましいことを言いながら。
正月早々、こんなことを書いているようではどうも進歩がないな。
今年こそ、編集者の方たちや画家の方たちに迷惑をかけないようにしようと決心したのに、これではどうやらその決心も怪しいものだ。
『巷談辞典』(河出文庫)に収録
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