2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(3)
このように侍従というのは日記を書くのが仕事なんです。侍従長は藤田という海軍大将ですから、これはお飾りですよね。本当の実権は木下道雄という侍従次長にあって、この人の日記は大変におもしろいのです。
僕はそのころ子どもで、皇太子さんより一つ下ですが、僕のところには皇太子の身代わりに立てという話は全然ありませんでしたが(笑)、次の日本を背負うはずの皇太子の周りも大変でした。だから疎開がうんと遅れてしまうのです。それぐらい天皇制については世界中で 残すべきだ、いや処刑すべきだ、島流しにしろ、退位しろ、という声が渦巻いていた。
日本国内では、天皇を裁判に出さないための努力が積み重ねられていきます。東京裁判においても日本の参謀本部がだいぶ協力します。それから民間の人も協力します。アメリカに、「だれだれが犯人だ」というふうに、告げ口と言うと語弊がありますが、アドバイスをしている。アドバイスした日本人たちの共通の関心事は「天皇をどう残すか」ということです。
これは丸山真男さんが後でお書きになった論文を読んで目からうろこで、「あっそうだったのか」と思いましたが、あの戦争に一番熱中していたのは、町長、警察署長、お寺の坊さん、神主さん、町内会長、それから在郷軍人会。もう戦争に行きそうもない、そういう人たちが一番熱心だったのです。僕は小さかったけれどもよく記憶しています。
あの戦争をどうして防げなかったか、どうしてやってしまったのか。
東京裁判というのは一種の線引きです。悪いのは戦争を起こしたA級、B級、C級の戦犯たちで、それ以外の人は実は被害者でしたという形をつくった。
日本人が考えたことで日本人が死ぬのはしょうがないですが、まったく無関係のアジアの人たちを大勢被害に遭わせているわけです。それについては日本人みんな一人ひとり、それなりに責任があったと思うのですが、A級戦犯は東条さん以下、二八人(途中、亡くなった人もいて二五人に)、またB級戦犯、C級戦犯があって、「この人たちは悪い人」と線を引いて、あとはみんな被害者という形をつくったわけです。それで責任のある普通の人たちがみんな、「私は被害者だもん」と、線のこっち側へ出てしまった。その中に天皇が紛れ込んでいたということです。
東京裁判は、アメリカの主導のように思えます。しかし、その一方で、日本の官僚たちが、`自分のやりたいことをそのまま国民に言うとすぐ反発がくるので、国民が恐れ入っている人を通して命令するというケースが多いように思えるんです。
実は日本国憲法も、日本を一生懸命考えている若い日本人たちがアメリカの占領政策に協力しながら、こうなったらいいだろうなという国をつくっていたという側面もあるのです。
東京裁判を三〇分で言うのは無理なので、本当に駆け足になりますが、ここで導き出されたいくつかの原則というのは、誰かの命令だと思っているのをよく調べていくと、実は自分の身の回りにいる人が誰かの権威を利用して、その権威から命令をしていくという、そういう政治の流れがあるのではないかということです。
アメリカが一方的に押し付けたというよりも、「アメリカさんが言えば大丈夫ですよ」という方式を、昭和二〇年、二一年の日本の官僚のトップたちは取ったのではないか。
アメリカを利用してやらせようという形が、今やますますしっかりできていると思います。なんでもアメリカからの命令というわけじゃなくて、ウラで考えている日本の官僚たちがいるはずなんですよね。自分たちが言ったのでは国内で反発されるので、それをアメリカに吹き込んで、いろんな協議をする形をとって、アメリカから言ってもらうという形式が基本的にあります。もちろん、アメリカにとってそれは利用価値がありますから、この形は今も変わっていません。
アメリカの命令だと日本人は、「しょうがねえな」とかブツブツ言いながらも、それを受け入れていく。今度の米軍再編もそうですよね。国会にもどこにもかけられていないことがアメリカを通してワッとくると、私たちはしょうがないなと。「本当にアメリカはバカだよね」とか言いながらお茶飲み話で、しかし事態はどんどん進んでいくわけです。
(つづく)
ブックレット「この日、集合」(金曜日)
当時の日本の大人たちには、それぞれ責任があると思います。
より抄録
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