井上ひさしは社会に対して積極的に行動し、発言しました。コラムやエッセイに書き、インタビューや講演で語ったことばの中から<今を考えるヒント>をご紹介します。

  2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(2)

  さらに、連合国の裁判であるはずなのにアメリカが主導権を発揮してきた。そこで、皆さんご存知のように、昭和天皇を裁判所に引き出すかどうかという問題が起きるわけです。

  昭和二〇年秋、アメリカのギャラップという有名な世論調査の研究所の調査では、アメリカ人対象ですけれども、五〇%を超える人たちが天皇を<処刑せよ>と。処刑はあんまりだから遠い小島に流せとか、退位しなさいとか。
  天皇にはあまり責任はないのでないか、その部下と言いますか、軍部と一部の政治家たちの責任ではないかという声も多少ありますが、それは一〇%を超えるぐらいです。
  アメリカでさえそうです。オーストラリア・フィリピン、そしてソ連は完全に、天皇は処刑、あるいはよくても退位。「天皇の位を退け」という意見が圧倒的に多かった。

  占領のやり方には、アメリカが全部役人の代わりに仕切っていくという<直接統治>と、日本の官僚機構を使って間接的に自分が命令を下して、それで日本人の官僚が占領政策をやっていく<間接統治>の二通りがありますが、アメリカが選んだのは後者の間接統治です。
  日本の官僚制を残して、そこに終戦連絡事務局というのができる。この外務省の外局にマッカーサーがどんどん命令を出していくと、連絡局が官僚を使って実施していく。そういう形を取る。
  実は、この形は天皇がいて初めて成立する方法ではないかと、アメリカの知日派とか政府は考えた。もちろんアメリカの政府も一枚岩ではなくて、
「天皇を罰すべきだ」と言う人もいれば、
「いやいやそうじゃない、あの天皇は、ある意味では利用してすでにある日本の機構を通して占領政策を進めていくべきだ」と言う人もいた。
  マッカーサーが一番びっくりしたのは、天皇の命令、天皇のラジオによるいわゆる玉音放送によって、日本の兵隊が一斉に武器を置いたことなんです。
  日本人にとって天皇というのは大変な力を持っている。あるいは天皇をみんな愛している。普通の国でしたら絶対にどこかで、いやおれは負けないそと、最後まで戦うという人たちが出てきます。日本はそれはごくごく少数で、一斉に武器を置いたというので、マッカーサーは本当に感動しているんです。いろんな証拠を集めますと、マッカーサーは実は天皇を大変に尊敬し始めている。
  そこで天皇を処罰すること、少なくとも裁判所に引き出すということは絶対にマイナスだ、日本人はきっと黙っていないだろう。内戦が起きるかもしれない。と、天皇を利用しようという方が勝ったわけです。

  これはやや脱線ですけれども、実は終戦しても、徹底的に抵抗しようという人たちがいた。
  東部第一八団とかいうところの一部の若い将校たちです。今の天皇はもう敗戦主義者で、すぐ降伏なんていうことを言い出すから、むしろ皇太子に望みをかけようというので、皇太子を拉致して即位させようと。昔の南朝と北朝になりそうだった気配もあるのです。
  最初、皇太子殿下は那須に疎開しました。那須も危なくなりましたので、今度はもっと奥の方、日光に疎開するんです。
  若い将校たちが皇太子を疎開先からもぎ取って、この人こそ本当の日本だと押し立てて、そして最後まで抵抗しようという動きが起こります。これが八月一五日、一六日ぐらいに東京のある部隊で起こり始めるのです。
  そこで侍従次長の木下道雄は、さっそく日光儀仗隊に
「皇太子を守れ」と命じた。儀仗隊という皇太子を守る軍隊、近衛師団の精鋭があるんです。この人たちが皇太子を護衛しているわけですが、「万が一の場合は身代わりを立てなさい」と。
  皇太子は学友と一緒に疎開していますよね。その学友の中で皇太子と背丈が似ている子どもを身代わりに立てて、いざというときにはその子どもが皇太子だということにして、本当の皇太子を駕籠かごに乗せて……。<駕籠>っていうのが時代色ですが、山を越えて今市へ逃げよと。そういう作戦も立てるぐらい大変な時期だった。
  これは木下道雄侍従次長の日記にあります。侍従は全部日記を書かなきゃいけないんです。侍従というのはたくさんいますから、それでさまざまな見方の日記ができる。みんな少しバイアス、偏見で書きますけれども、クロスしていくと事実が浮かび上がってきます。

(つづく)

ブックレット「この日、集合」(金曜日)
当時の日本の大人たちには、それぞれ責任があると思います。 より抄録


    

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