井上ひさしは社会に対して積極的に行動し、発言しました。コラムやエッセイに書き、インタビューや講演で語ったことばの中から<今を考えるヒント>をご紹介します。

NEW!
  1989年執筆

作曲家ハッター氏のこと

  一人の人間の生死によって、時間に「明治」だの、「大正」だの、「昭和」だのといった枠をはめられるのはいやだ。そんなものでわれわれのかけがえのない時間を勝手に区切られたくない。そう考えているので、昭和が終ろうが、平成が始まろうが、なにひとつ特別な感慨がない。昭和回顧はそういうことのお好きな向きにおまかせして、私は読みたい書物をゆっくり読んでいたい。――以上で私の感想はおしまいだが、これではあんまり曲がない。小学生のころの思い出話をひとつして、責を果すことにしよう。
  生家は田舎の薬局である。文房具や書籍雑誌も商い、レコードも売っていた。昭和十五、六年(こうやっていちいち年号を書かねばならぬのは、いつものことながら苦痛である)になると、蓄音機用の鉄の針は姿を消した。かわりにピックアップに竹針をさしこみ、その尖端でレコードの(みぞ)から音を取り出していた。店の一角で、この竹針が小山に盛られて客を待っていた光景がいまでも眼の底にあざやかである。レコードの枚数は割当制だった。売れたから追加注文、という具合には行かぬ。人口六千の田舎町には高峰三枝子の「湖畔の宿」は二枚しか出せないというふうに、向うから数を限ってくるのだ。レコードは入るとすぐ売れた。そこで私たち流行歌好きの子どもは忙しい。その日のうちにレコードを聞いてしまわなければならぬ。ぐずぐずしていると聞き逃してしまう。母親から「お客様にお渡しする前に一回だけ聞かせてあげる」という許可が出ていたので、それをあてにして近所の好きものの子どもがこっそり集まってくるわけである。
  もっともなかにはひと月もふた月も買い手のつかないレコードがある。土地柄のせいもあってか、洋盤レコードは売れ行きが香しくなかった。そういった洋盤のなかで忘れられないのは、「私の好きなワルツ」という曲だった。軽快だが、どこか哀愁を含んだ旋律をスチール・ギターやバイオリンやアコーディオンが何回も繰り返し、おしまい近くになって男声が英語でうたい、口笛がそれに続くという構成であったと思う。これを毎日のように竹針で聞き、聞くたびに好きになり、みんなで口笛を吹けるようにまでなった。「作詩ハッター・マクスウェル、作曲ハッター」というラベルの文字もおぼえた。このレコードと私たちとの蜜月は三ヶ月ばかり後、町の図書館長がこれを半値に叩いて買っていってしまうまで続いたのだが、ついこの間、作曲家服部良一の自叙伝を読んでいるうちに、「ハッター・マクスウェル」も「ハッター」もともにこの人の変名だったと知り、仰天してしまった。
  事情はこうである。このレコードの発売は昭和十六年七月だが、そのころ輸入制限措置がいちだんときびしくなって洋楽原盤の輸入が極端に減った。そこで国内でつくった偽の洋盤が出回り、服部良一はそうした偽洋盤のヒット・メーカーだった。軍国歌謡の苦手な彼は、こうした変名で口を糊していたのである。才能のある作曲家が変名で仕事をしなければならなかった時期が昭和という時代にあったこと、そういったことが頭に刻みつけられているあいだは、少くとも私は昭和という年号を使うことに抵抗を持ちつづけるだろう。

「餓鬼大将の論理エッセイ集10」
(中公文庫)に収録




    

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 NEW!
 1987年執筆
あまりの阿保らしさに
『「国家秘密法」私たちはこう考える』岩波ブックレット118より


 2001年「日本語講座」より
諭吉が諦めた「権利」
「日本語教室」(新潮新書)に収録


 1989年執筆
作曲家ハッター氏のこと
「餓鬼大将の論理エッセイ集10」
(中公文庫)に収録


 仙台文学館・井上ひさし戯曲講座「イプセン」より
近代の市民社会から生まれた市民のための演劇
「芝居の面白さ、教えます 海外編~井上ひさしの戯曲講座~」(作品社)に収録


 2005年の講和より再構成
憲法前文を読んでみる
『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社 2006年刊)に収録


 1998年5月18日 『報知新聞』 現代に生きる3
政治とはなにか
井上ひさし発掘エッセイ・セレクションⅡ
『この世の真実が見えてくる』に収録


 2004年6月
「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」小森陽一対談集
(シネ・フロント社)より抜粋


 1964〜1969年放送
NHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』より
『ドン・ガバチョの未来を信ずる歌』


 2001年11月17日 第十四回生活者大学校講座
「フツー人の誇りと責任」より抜粋
『あてになる国のつくり方』(光文社文庫)に収録


 2007年執筆
いちばん偉いのはどれか
『ふふふふ』(講談社文庫)、
『井上ひさしの憲法指南』(岩波現代文庫)に収録


 2009年執筆
権力の資源
「九条の会」呼びかけ人による憲法ゼミナール より抜粋
井上ひさし発掘エッセイ・セレクション「社会とことば」収録


 1996年
本と精神分析
「子供を本好きにするには」の巻 より抜粋
『本の運命』(文春文庫)に収録


 2007年執筆
政治家の要件
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年執筆
世界の真実、この一冊に
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 戯曲雑誌「せりふの時代」2000年春号掲載
日本語は「文化」か、「実用」か?
『話し言葉の日本語』(新潮文庫)より抜粋


 1991年11月「中央公論」掲載
魯迅の講義ノート
『シャンハイムーン』谷崎賞受賞のことばより抜粋


 2001年8月9日 朝日新聞掲載
首相の靖国参拝問題
『井上ひさしコレクション』日本の巻(岩波書店)に収録


 1975年4月執筆
悪態技術
『井上ひさしベスト・エッセイ」(ちくま文庫)に収録


 講演 2003年5月24日「吉野作造を読み返す」より
憲法は「押しつけ」でない
『この人から受け継ぐもの』(岩波現代文庫)に収録


 2003年談話
政治に関心をもつこと
『井上ひさしと考える日本の農業』山下惣一編(家の光協会)
「フツーの人たちが問題意識をもたないと、行政も政治家も動かない」より抜粋


 2003年執筆
怯える前に相手を知ろう
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 1974年執筆
謹賀新年
『巷談辞典』(河出文庫)に収録


 2008年
あっという間の出来事
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2008年
わたしの読書生活
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年
生きる希望が「なにを書くか」の原点
対談集「話し言葉の日本語」より


 2006年10月12日
日中文学交流公開シンポジウム「文学と映画」より
創作の秘儀―見えないものを見る


 「鬼と仏」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(1)~(5)


 「核武装の主張」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


 「ウソのおきて」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


  2007年11月22日
社団法人自由人権協会(JCLU)創立60周年記念トークショー
「憲法」を熱く語ろう(1)~(2)


 「四月馬鹿」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 「かならず失敗する秘訣六カ条」2005年執筆
文藝春秋『「井上ひさしから、娘へ」57通の往復書簡』
(共著:井上綾)に収録


 「情報隠し」2006年執筆
講談社文庫『ふふふふ』に収録


 2008年3月30日 朝日新聞掲載
新聞と戦争 ―― メディアの果たす役割は
深みのある歴史分析こそ


 2007年5月5日 山形新聞掲載
憲法60年に思う 自信持ち世界へ発信