2009年執筆
権力の資源
ある時代には、王様が絶大な権力をもっていました。世の中のまとまりを保つためには王様が公的な権力をもったほうがいいと、みんなが、とくに王様自身が、そう考えていたわけです。けれどもそのとき、王様の権力の資源となったものは何だったのでしょうか。尊敬されるべき家柄だったからか、お城に莫大な財宝を貯えていたからか、領国内で起こった揉めごとを公明正大に裁く知恵をもっていたからか、触っただけで万病を治す魔法の手を持っていたからか、御家来衆がみんな強そうで、それが怖かったからか、御城下に住んでいるかぎりご飯が食べられたからか……たぶんこれらをすべて合わせたものが、王様の権力の資源だったのでしょう。
会社にしても同じことかもしれません。社長には権力がありますが、その資源はどこからきたものなのか。株主総会でそう決まった、社の業績をいいほうへいいほうへともって行ってくれる、社員に給料を保証してくれる、社内人事をはじめなにごとにも公平である、不行跡な社員を解雇するのにためらいがない、不祥事が起きたときの謝り方がリッパである……これらをすべて合わせたものが、社長の権力の資源になっているはずです。
では、右の論法を閣僚諸君や国会議員諾公に当てはめると、どうなるか。いちいち「閣僚諸君や国会議員諸公」と書くのは面倒なので、ここからは「国家権力」にしますが、いったい国家権力の、その資源は何なのでしょうか。近代国家のほとんどが民定憲法のもとに経営されていることは、『クレスコ』の読者ならどなたもご存知でしょう。
そしてこれは通説となっていますが、「近代国家とは、国民が憲法に超越した存在として憲法を制定する。そしてその憲法に従って国家権力が形成される」ものなのです。つまり、わたしたちのこの日本国も、政治権力については、<(1)国民の憲法制定能力―(2)憲法―(3)国家権力>という三層の段階構造になっていて、憲法が政治権力の資源そのものなのですね。このことは日本国憲法自身が、「第一〇章 最高法規」ではっきりと宣言しています。
たとえば、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は……現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第九七条)、さらに「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第九八条)、とりわけ第九九条が、憲法と国家権力との関係を明快に定義しています。ご存知のように、それはこうです。
<天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。>
ですから、「自主憲法制定」を結党理由の第一に掲げている自民党などは、この憲法の本質(とくに永久平和)を端から軽んじている党派であって、もともと憲法から権力の資源を汲み上げる資格を欠いています。「憲法を変える」という党是を、ただそれだけを争点として総選挙を戦うべきです。わたしたち国民が大きく黒黒と黒星を描いてあげますからな。
*
面妖なのは、この第九九条をまったく無視し、さんざんに踏みにじっている自民公明両党が、このところしきりに、第五九条を持ち出して、衆議院でつぎつぎに法案を通していることです。すなわち、その第二項の<衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。>という、いわゆる三分の二条項を使ってどかどか法律をこしらえている。
わたしたち国民は、わたしたちから発している権力の資源を、ときには無視され、ときには利用され、好き勝手に使われています。わたしたちは自民公明の両党にバカにされているんです。しかもこのあいだの郵政選挙ではその両党に大勝させているのですから、もういいように舐められているんです。大事な政治権力の資源を、いったい誰が汲み上げようとしているのか、わたしたちにはそれを注意深く見張る責任があります。
(クレスコ編集委員会全日本教職員組合(全教)編『月刊クレスコ』二〇〇九年八月号 大月書店)
井上ひさし発掘エッセイ・セレクション「社会とことば」収録
「九条の会」呼びかけ人による憲法ゼミナール より抜粋
Tweet