井上ひさしは社会に対して積極的に行動し、発言しました。コラムやエッセイに書き、インタビューや講演で語ったことばの中から<今を考えるヒント>をご紹介します。

  2003年執筆

怯える前に相手を知ろう

  ノーム・チョムスキー(一九二八~ )は、すくなくとも筆者などには、それこ「後光(ごこう)()す」ような存在、それまでに見たことも聞いたこともないような斬新な理論を引っ提げてさわやかに登場した言語学者でした。彼はまったく一九六〇年代の星だった。
  彼のどんなところが新しかったのか。それはたとえばこうでした。ありとあらゆる人間の言語はすべてある共通の構造を持っている。だからAというコトバとBというコトバがどうちがうかを勉強することは大事だが、AとBとがより深いところでは似ているという事実(言語普遍素性)を知ることも大切である。
  この言語普遍素性理論をもとに、彼は、たとえば次のようにも言いました。人間の赤ちゃんは、母親の胎内からこの世に生まれ出たとき、人間の発するすべての母音に対応できる能力を持っている。その能力は遺伝子の中に秘蔵されているのだ。そして赤ちゃんは、母親とその周囲から注ぎ込まれるコトバ(つまり母語(ぼご))の雨に打たれているうちに、そのコトバの母音を完全に聴き分けることができるようになり、それと引き換えに他のコトバ(つまり外国語)の母音への対応能力をなくして行く。文法(コトバを使う規則)についても同じことが起こる。
  この言語普遍素性の理論は、さまざまな批判を浴びながらも、今なお理論言語学の原動力になっていることは、たしかです。
  ところでノーム・チョムスキーには、ひとりの市民として政治の場で発言し、そして書物を(おおやけ)にするという側面があって、ここでも彼はわたしたちに多くを教えてくれました。
  日々の出来事に目を奪われることなく、世界の骨組み(政治普遍素性)を見究めるという彼の考え方は、むろん長年の言語研究で(つちか)われたものですが、たとえば、彼の最近の発言を集めた『メディア・コントロール』(鈴木主税訳、集英社新書)の中には、宝石の輝きより(まばゆ)い定見がいたるところに(ちりば)められています。紙幅に限りがありますので一つだけ引用しましょう。
  <普通、国民は平和主義にかたむくものだ。第一次世界大戦のときもそうだった。一般の人びとは、わざわざ外国に進出して殺人や拷問をすることにしかるべき理由など見出せない。だから「こちらが」あおってやらなければならない。そして、国民をあおるには、国民を怯えさせることが必要だ。>(三二頁)。
  あの国は危険で邪悪だ。なにを仕掛けてくるかわからない。いまのうちに(たた)いておかないと、わたしたちはひどい目に合わされてしまう。国民をそうやって怯えさせる。そうすると国民がひとりでに動き出す。この仕組み(メカニズム)が、これまでどれだけ現代の諸悪を生み出してきたか。それをチョムスキーはたくさんの例を()げて説明しています。
  もちろんこの仕組みを発動させるのは国家や政府ですが、わたしたちは多少とも利口になっているので、単純な構図には動かされません。そこで鍵になるのは、大規模な商業組織であり、その先端にあるマスコミである。この本にはチョムスキーと作家の辺見庸さんの、その深さと激しさによって感動さえ呼び起こすような対談が併載されていますが、ひっくるめて、「国民を怯えさせる」という政治普遍素性に対抗する知恵を授かったように思いました。わたしたちは怯える前に、相手をよく知らなければならない。とことんまで相手を知ること。怯えるのはそれからでも遅くはない。
(二〇〇三年六月二十九日)


『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録

    

Lists

 NEW!
 1987年執筆
あまりの阿保らしさに
『「国家秘密法」私たちはこう考える』岩波ブックレット118より


 2001年「日本語講座」より
諭吉が諦めた「権利」
「日本語教室」(新潮新書)に収録


 1989年執筆
作曲家ハッター氏のこと
「餓鬼大将の論理エッセイ集10」
(中公文庫)に収録


 仙台文学館・井上ひさし戯曲講座「イプセン」より
近代の市民社会から生まれた市民のための演劇
「芝居の面白さ、教えます 海外編~井上ひさしの戯曲講座~」(作品社)に収録


 2005年の講和より再構成
憲法前文を読んでみる
『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社 2006年刊)に収録


 1998年5月18日 『報知新聞』 現代に生きる3
政治とはなにか
井上ひさし発掘エッセイ・セレクションⅡ
『この世の真実が見えてくる』に収録


 2004年6月
「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」小森陽一対談集
(シネ・フロント社)より抜粋


 1964〜1969年放送
NHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』より
『ドン・ガバチョの未来を信ずる歌』


 2001年11月17日 第十四回生活者大学校講座
「フツー人の誇りと責任」より抜粋
『あてになる国のつくり方』(光文社文庫)に収録


 2007年執筆
いちばん偉いのはどれか
『ふふふふ』(講談社文庫)、
『井上ひさしの憲法指南』(岩波現代文庫)に収録


 2009年執筆
権力の資源
「九条の会」呼びかけ人による憲法ゼミナール より抜粋
井上ひさし発掘エッセイ・セレクション「社会とことば」収録


 1996年
本と精神分析
「子供を本好きにするには」の巻 より抜粋
『本の運命』(文春文庫)に収録


 2007年執筆
政治家の要件
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年執筆
世界の真実、この一冊に
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 戯曲雑誌「せりふの時代」2000年春号掲載
日本語は「文化」か、「実用」か?
『話し言葉の日本語』(新潮文庫)より抜粋


 1991年11月「中央公論」掲載
魯迅の講義ノート
『シャンハイムーン』谷崎賞受賞のことばより抜粋


 2001年8月9日 朝日新聞掲載
首相の靖国参拝問題
『井上ひさしコレクション』日本の巻(岩波書店)に収録


 1975年4月執筆
悪態技術
『井上ひさしベスト・エッセイ」(ちくま文庫)に収録


 講演 2003年5月24日「吉野作造を読み返す」より
憲法は「押しつけ」でない
『この人から受け継ぐもの』(岩波現代文庫)に収録


 2003年談話
政治に関心をもつこと
『井上ひさしと考える日本の農業』山下惣一編(家の光協会)
「フツーの人たちが問題意識をもたないと、行政も政治家も動かない」より抜粋


 2003年執筆
怯える前に相手を知ろう
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 1974年執筆
謹賀新年
『巷談辞典』(河出文庫)に収録


 2008年
あっという間の出来事
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2008年
わたしの読書生活
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年
生きる希望が「なにを書くか」の原点
対談集「話し言葉の日本語」より


 2006年10月12日
日中文学交流公開シンポジウム「文学と映画」より
創作の秘儀―見えないものを見る


 「鬼と仏」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(1)~(5)


 「核武装の主張」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


 「ウソのおきて」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


  2007年11月22日
社団法人自由人権協会(JCLU)創立60周年記念トークショー
「憲法」を熱く語ろう(1)~(2)


 「四月馬鹿」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 「かならず失敗する秘訣六カ条」2005年執筆
文藝春秋『「井上ひさしから、娘へ」57通の往復書簡』
(共著:井上綾)に収録


 「情報隠し」2006年執筆
講談社文庫『ふふふふ』に収録


 2008年3月30日 朝日新聞掲載
新聞と戦争 ―― メディアの果たす役割は
深みのある歴史分析こそ


 2007年5月5日 山形新聞掲載
憲法60年に思う 自信持ち世界へ発信