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2001年「日本語講座」より
諭吉が諦めた「権利」
漢字はとても便利です。意味を表す文字で大変便利なのですが、一個だけだと抽象的なんですよね。くっつけて二個になるとぐっと安定してきます。たとえば「会」という字、「会社」「茶会」「大会」「集会」「会合」、四字になると「学生集会」とか「決起集会」とか、ものすごく具体的に物事を表現できます。
いま、常用漢字は一九四五個あります。これを二個に組み合せると何種類の概念が表現できるでしょうか。きのう計算しましたら、一九四五×一九四五=三七八万三〇二五個でした。
常用漢字だけでも三百何万の組み合せができるということは、大抵のことは表現できそうです。で、この特徴を使ったのが、明治時代の学者たちでした。西洋にあるもので、日本も取り入れるべきだというものを、すべて漢字を使って翻訳していったのです。
英語の「ロコモティブ(locomotive)」を「機関車」にする。これは、「機関車」の現物がありますから間違うことはないわけです。ところが、抽象的な概念を持ってくるときには、いろんな問題が起きてきます。今日は、その中の代表的な二つの言葉の説明をしたいと思います。
一つは「権利」という言葉です。
この概念は、そのころまでの日本にはありませんでした。「ヒューマンライツ(humanrights)」とかいろいろ言う、あの「ライト」です。明治の初め、福沢諭吉は、外国にある概念で日本にないものを漢字を二つ使って翻訳するという仕事を一所懸命やっていました。一例をあげると「スピーチ(speech)」。この言葉は民主主義にはとても大事なので、なんとか日本語に翻訳したいと頑張るんですが、適当なのがない。結局、和尚さんが仏の教えを説くときの「演説」という仏教用語を採用したのです。普通に説くのではなくて、演ずるように説くということなのでしょうが、この言葉は定着して、私たちはごく普通に使っています。「トーク(talk)」を「談話」と訳したのも諭吉です。
そういう例はたくさんありますが、問題は「権利」という言葉です。「ライト」という概念は日本にはなかった。そこで、福沢諭吉はさんざん考えて、『西洋事情』という有名な本のなかで、「訳字を以て原意を尽すに足らず」、つまり翻訳不可能だと述べています。「ライト」という、一番大事な、つまりこれで戦争が起こったり革命が起こったりする大変な言葉の翻訳を、諭吉は諦めたのです。
そこへ西周が、私が訳してみせるというので、福沢諭吉を真似して、仏教用語のなかから「権利」という言葉を持ち出してきたのです。その結果、「ライト」は「権利」になってしまいました。
もともとの「権利」という言葉の意味は、「力ずくで得る利益」なのです。仏典や中国の『荀子』という道徳書などでは、「権利」は「権力と利益」の意味で使われています。それなのに西周さんは、「ライト」に「権利」を当てたわけです。その結果、「権利」というのはなんとなく悪いことだという感覚が、日本人のなかにずーっとしみついていくんです。「権利ばっかり振り回して」とか反射的によく言いますよね。
それから、「フリーダム」もそうです。福沢諭吉が「自由」と訳してます。中国伝来の「自由」は、「我が儘勝手のし放題。思うまま振る舞う」という意味なのです。それを当てちゃったんですよ、「フリーダム」と「リバティー」に。でも、「自由」という言葉は日本人の遺伝子にはよくないこととして染み込んでいます。ですから、「自由のはき違え」とかよく言われますし、年寄りはほとんど「自由」を敵視することになりました。
つまり、「それはおれの権利だ」と言うと、みんななんとなく、「義務だってあるんだぜ」とまぜ返したくなるでしょう。これは語感の問題ですね。当たり前のことを主張しているのに、「あいつは権利ばっかり言うからね」というふうに嫌がられることが多いと思います。
日本になくて外国にあって、その精神をこそ勉強しなければいけない大切なことばを漢字に訳しそこねてしまった。大事なものなのに、迷惑なような漢字を当ててしまったために、われわれはいまだに「権利」とか「自由」に対してかなり鈍感です。あるいはそういうことを言うとだめなんじゃないかと、そういうへっぴり腰の態度も実はあると思います。
「フリーダム」「ライト」と「自由」「権利」の間にあったズレが、この百年の間に大きくなってしまったのではないか、そう思わざるを得ないのです。
「日本語教室」
(新潮新書)に収録
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