2008年
あっという間の出来事
「太平洋戦争の開戦責任が、日本国民にあろうとは思えない」といったアメリカの倫理学者がいる。彼の名はジョン・ロールズといい、二十四歳のときにアメリカ陸軍の一員として敗戦直後の日本の焦土を踏んだことがある。そのロールズがつづけていう。「開戦時の大日本帝国議会が国民によって正しく選ばれた議員で構成されていた事なら、それならば国民に開戦責任があるが、どうやらそうではなさそうだ。つまりそのころの日本はちゃんとした選挙をやることができないでいた。したがって国民に責任を問えるとは思えない」
のちに『正義論』(一九七一年)という、出版されたとたんに「新著にしてすでに古典」といわれた本を書くだけあって、ロールズの論理は、(その主旨に多少の違和感を持つものの)とても明快であり、『正義論』の中で展開されている「格差原理」という「理論もまたすこぶる明快で、ひとことでいうならこうである。
「よりたくさん手に入れる人びとは、より少なく手に入れる人びとから見ても、なかでも一番少なく手に入れる人びとから見ても納得できるような条件で、よりたくさん手に入れるのでなければならない」
ここにある企業があり、その工場へ、ネットカフェで夜を明かしながらカップ麺で空腹をなだめ一足九十九円の靴下をはいて働きにくる日雇いの若者がいる。このとき、この企業の経営者の報酬は、その若者が「ああ、それなら納得できる」という範囲内に収まっているべきである……と、これがロールズのいう「正義」である。『ロールズ 正義の原理』(講談社「現代思想の冒険者たち」第二十三巻 一九九七年)を書いた川本隆史さんは、この「正義」を「まともさ」と言い換えておいでで、これは名定義であるが、それにしても経営者たちはなんのためにそんなことをしなければならないのだろうか。
ここからしばらくロールズからはなれよう。さて、なにが起こるか、まったくわからないのが人の一生である。たとえば、ついこの間まで、「一億総中流」という流行語があり、「悪平等」という言葉があった。ところがあっという間に「貧乏」という厄介な怪物がこの国に棲みついてしまった。こうなることをいったいだれが予想していただろうか。
新しい憲法のもとで、何十年もかかって国民全員で築いてきた「貧困、失業、病気、高齢といった人生の途上に待ち受けている危険を防ぐための安全網」が、あっという間にずたずたになった。「教育、医療、住宅、公共施設、年金といった社会的な基盤」が、これまたあっという間に崩れてしまった。まったく先のことはわからない。
そしていまは、以前の三倍から五倍に収入をふやした富裕な上層と、過労を強いられながら正社員の席に必死でしがみついている人たちの中層と、そして年間所得が二百万円に充たない非正規社員の下層の、三層に分かれてしまった。その下層にしても、ネットカフェ難民やホームレス難民と境を接している。
ほかにも、ひと月の手当五万円(そのうちから三万円も強制的に預金させられている)という東南アジアからの研修生や技能実習生がいて、全国の中小企業や零細企業に派遣され、休む間もなくミシンを踏み、魚を獲り、田畑を耕している。こうして雇用者五千二百万人のうち、三人に一人が非正規社員という不安定な社会ができてしまった。これがわたしたちの国の真の姿である。
おまけに狡賢い人たちが「自己責任」という自分たちには都合のいい言葉を発明して、「きみたちが貧しいのは、きみたち自身の責任である」ときめつけてくる。そこで下層にいる人たちはたいてい自尊心を失い、意欲を欠き、そして居場所さえ失って、この「人にして人にあらず」というひどい状況のもとでやっと息をしている。わたしたちはあっという間に「他人は死ぬままにしておけ」という社会を作ってしまった。
この富と貧乏との偏在をなんとかしなくては、日本という国の持続的な維持はむずかしい。そこで先ほどのロールズの言葉が生きてくる。富裕な上層の人たちは下層の人たちが納得できる範囲の報酬を受け取り、余ったお金は社会へ戻すべきだ。その方が結局は上層の人たちのためになる。
またもやお前は理想論の寝言をいっている……と笑う読者もおいでだろうが、世界の金持たちはロールズ以前からロールズ式のやり方をしている。たとえば、アメリカの鉄鋼王カーネギーは「わたしたちの鉄が売れたのは、それを買う人たちがいたおかげだ」といって、図書館を毎年一館、アメリカのどこかに建てるように遺言した。そのおかげでニューヨークだけでもカーネギー財団の建てた図書館が八十館もある。富裕な者たちは、いまこそ社会に参加しなくてはいけない。そうしたら世の中はあっという間に……やはり寝言だろうか。
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録
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