井上ひさしは社会に対して積極的に行動し、発言しました。コラムやエッセイに書き、インタビューや講演で語ったことばの中から<今を考えるヒント>をご紹介します。

 2006年執筆

情報隠し

  昨年の暮れ、埼玉の高校生が二人、池袋駅近くの公衆電話ボックスから電話帳を盗み出しました。そして電話帳をめくりながら「とめ」「はな」「うめ」「すて」「かね」「ふみ」といったような名前をより出し、片っ端から電話をかけました。一日に平均三百件も電話をしたそうですが、このやる気をもっと別の方向に使えばいいのにと、だれだって口惜しくなります。
  二人のやり方はこうでした。まず「古風な名前」を選び、次に「電話帳に名前を載せているくらいだから戸主にちがいない」と考え、さらにその考えを「こういう古風な名前は高齢の女性にちがいない」と推し進め、ついに「つまりおばあさんが独りで暮らしているにちがいない」と見当をつける。そして電話口でいまにも泣きそうな声で訴えた。
  「会社の会計で金額が合わなくて困っている。金を貸してほしい」
  不幸なことに、この偽情報とぴったり合う場合がある。「うちの孫はたしか会社勤めをしていたはず。それも会計係だといっていた……」というおばあさんが何人かおいでになる。耳も多少遠くなっています。そこで受話器の声を、ご自分のお孫さんだと信じて、お金を振り込んでしまいました。
  この「振り込め詐欺」で騙し取った金額は計二百万円(五件)でした。けれどこんなことは長くは続かない。二人は二月上旬に捕まってしまいました。うしろから二人を操った人物がいるらしいのですが、それはとにかく、こういう偽情報は困ります。

  同じように困るのは、すっぽりと情報を隠してしまう人たちがいることで――ここから話が少しややこしくなりますが――昭和十六年(一九四一)十二月初め、米国ワシントンで、戦争回避のための交渉にあたっていた日本の二人の大使(野村吉三郎、来栖三郎)が、ハル国務長官に提案しました。
「行き詰まっている日米交渉に新局面を開くには、わが国の天皇陛下とルーズベルト大統領閣下との間で親電を交換していただくしかありません」
  そこで大統領は十二月七日(日本時間)に天皇に宛てて親電を打ちました。いうまでもなく、この日は真珠湾攻撃の前日でした。
  このことは、当時の内大臣木戸幸一の『木戸日記』の十二月八日の項に、〈午前零時四十分、米国大統領より天皇陛下への親電〉と記されているように歴史的事実です。ちなみに内大臣の務めは「天皇の相談相手」になることで、つまり木戸はそのとき天皇にもっとも近い地位におりました。
  ところで、この八日午前零時四十分の親電がいつ天皇のもとに届いたでしょうか。じつは真珠湾攻撃が終わったあとでした。最高級の情報である大統領の親電を隠した人たちがいたのです。
  たとえば、開戦当時の外相東郷茂徳は、東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)に提出された尋問調書の中でこう証言しています。

〈私の記憶するところでは(開戦前は)その電報のことは天皇に申し上げませんでした)

  中学生だったわたしは、ラジオにかじりつくようにして、東京裁判の実況やニュースを聞いていましたが、この〈情報隠し〉には、ほんとうにびっくりしました。「世界で一番偉い天子さまに(そう教えられて育った)、大統領からの親電がきちんと届かないはずはない。いったい何が起こっていたのだろう」と、ふしぎで仕方がなかった。
  でも、今ならわかります。
  当時の陸軍は一つの怪方針を立てていた。「すべての外国電報は、その配達を十時間遅らせる」と決めていた。そして、その十時間のあいだに、電報に含まれている情報の質を検討し、さらに電報が届けられたあとの状況の変化にどう対応するか考えていたのです。
  もちろん、大統領の親電がすぐ天皇のもとに届いていたら、あの戦争は起こらなかったといいたいわけではありません。とにかく世の中には、情報を隠したり、偽情報を使ったりする人たちがたしかにいることを確認したかったのです。
  そういえば、法政大学の加納格教授が、日露戦争前夜の情報隠しについて書いておられました(二〇〇六年二月八日付、東京新聞夕刊)。

  教授によれば、ロシア文書館史料を詳しく読むと、ロシア皇帝からの「日本側の要求を呑む。全面譲歩する」という電報が、三日も四日もかけてやっと日本政府に届いた。〈これは当時の電信網整備からは説明できず〉、しかもこの電報が届いたときにはもう、日本は御前会議で、ロシアとの交渉打ち切りと軍事行動の開始を決定してしまっていました。やはり誰かが電報を隠していたのです。国家の運命を分ける情報隠しは、じつは明治三十七年(一九〇四)にもう始まっていた……いや、人間の歴史の始まりから、こんなことが起こっていたのでしょう。
  ここまで書いて、ふと新聞を見ると、米国の副大統領が友人を猟銃で射った事件が、ホワイトハウスによって二十四時間も隠されていたという記事が載っていました。情報を隠したり歪めたりすることの好きな人たちがずいぶんいるみたいです。おたがいに気をつけて生きて行きましょう。

講談社文庫『ふふふふ』に収録     

Lists

 NEW!
 1987年執筆
あまりの阿保らしさに
『「国家秘密法」私たちはこう考える』岩波ブックレット118より


 2001年「日本語講座」より
諭吉が諦めた「権利」
「日本語教室」(新潮新書)に収録


 1989年執筆
作曲家ハッター氏のこと
「餓鬼大将の論理エッセイ集10」
(中公文庫)に収録


 仙台文学館・井上ひさし戯曲講座「イプセン」より
近代の市民社会から生まれた市民のための演劇
「芝居の面白さ、教えます 海外編~井上ひさしの戯曲講座~」(作品社)に収録


 2005年の講和より再構成
憲法前文を読んでみる
『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社 2006年刊)に収録


 1998年5月18日 『報知新聞』 現代に生きる3
政治とはなにか
井上ひさし発掘エッセイ・セレクションⅡ
『この世の真実が見えてくる』に収録


 2004年6月
「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」小森陽一対談集
(シネ・フロント社)より抜粋


 1964〜1969年放送
NHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』より
『ドン・ガバチョの未来を信ずる歌』


 2001年11月17日 第十四回生活者大学校講座
「フツー人の誇りと責任」より抜粋
『あてになる国のつくり方』(光文社文庫)に収録


 2007年執筆
いちばん偉いのはどれか
『ふふふふ』(講談社文庫)、
『井上ひさしの憲法指南』(岩波現代文庫)に収録


 2009年執筆
権力の資源
「九条の会」呼びかけ人による憲法ゼミナール より抜粋
井上ひさし発掘エッセイ・セレクション「社会とことば」収録


 1996年
本と精神分析
「子供を本好きにするには」の巻 より抜粋
『本の運命』(文春文庫)に収録


 2007年執筆
政治家の要件
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年執筆
世界の真実、この一冊に
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 戯曲雑誌「せりふの時代」2000年春号掲載
日本語は「文化」か、「実用」か?
『話し言葉の日本語』(新潮文庫)より抜粋


 1991年11月「中央公論」掲載
魯迅の講義ノート
『シャンハイムーン』谷崎賞受賞のことばより抜粋


 2001年8月9日 朝日新聞掲載
首相の靖国参拝問題
『井上ひさしコレクション』日本の巻(岩波書店)に収録


 1975年4月執筆
悪態技術
『井上ひさしベスト・エッセイ」(ちくま文庫)に収録


 講演 2003年5月24日「吉野作造を読み返す」より
憲法は「押しつけ」でない
『この人から受け継ぐもの』(岩波現代文庫)に収録


 2003年談話
政治に関心をもつこと
『井上ひさしと考える日本の農業』山下惣一編(家の光協会)
「フツーの人たちが問題意識をもたないと、行政も政治家も動かない」より抜粋


 2003年執筆
怯える前に相手を知ろう
『井上ひさしの読書眼鏡』(中公文庫)に収録


 1974年執筆
謹賀新年
『巷談辞典』(河出文庫)に収録


 2008年
あっという間の出来事
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2008年
わたしの読書生活
『ふふふふ』(講談社文庫)に収録


 2001年
生きる希望が「なにを書くか」の原点
対談集「話し言葉の日本語」より


 2006年10月12日
日中文学交流公開シンポジウム「文学と映画」より
創作の秘儀―見えないものを見る


 「鬼と仏」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(1)~(5)


 「核武装の主張」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


 「ウソのおきて」1999年執筆
中公文庫『にほん語観察ノート』に収録


  2007年11月22日
社団法人自由人権協会(JCLU)創立60周年記念トークショー
「憲法」を熱く語ろう(1)~(2)


 「四月馬鹿」2002年執筆
講談社文庫『ふふふ』に収録


 「かならず失敗する秘訣六カ条」2005年執筆
文藝春秋『「井上ひさしから、娘へ」57通の往復書簡』
(共著:井上綾)に収録


 「情報隠し」2006年執筆
講談社文庫『ふふふふ』に収録


 2008年3月30日 朝日新聞掲載
新聞と戦争 ―― メディアの果たす役割は
深みのある歴史分析こそ


 2007年5月5日 山形新聞掲載
憲法60年に思う 自信持ち世界へ発信