井上ひさしは社会に対して積極的に行動し、発言しました。コラムやエッセイに書き、インタビューや講演で語ったことばの中から<今を考えるヒント>をご紹介します。

  2006年5月3日 <憲法制定60年>
「この日、集合」(紀伊國屋ホール)
“東京裁判と日本人の戦争責任”について(1)

  いま書いている芝居は東京裁判の話なので、実は頭の中が東京裁判でいっぱいなんです。東京裁判の三部作という大きな題で、これまでに一作、二作を書きまして、今は最後の第三作を書いている最中です。ですから私は頭の中にある東京裁判の話しかできない。もちろん憲法とやがて関係のある話が出てまいります。
  東京裁判にはいろいろ問題があるという意見を持つ方がたいへん大勢いらっしゃいます。とくにこの二〇年間、つまり東京裁判史観は間違いである、あそこから日本がスタートしたのは間違いだというふうにおっしゃる方の声がだんだんと大きくなり、増えてきました。
  たしかに問題はあります。戦争が終わった一九四五年、昭和二〇年、皆さんほとんど生まれていらっしゃらない…こともないですね(笑)。四五年八月八日のことです。
  このとき第二次世界大戦の結果は明らかに出ています。
  四ヶ月前にはムッソリーニがイタリアのパルチザンたちに追い詰められて、ミラノの近所で同胞のイタリア人の解放勢力から殺されている。ドイツはヒットラーの自殺によって五月に負けています。
  あとは日本だけとなった。もう沖縄は陥落し、この二日前には広島に世界最初の原子爆弾が落ちています。広島はその日のうちに九万人、その年の大晦日までで一四万人が亡くなっています。
  何カ月か前には東京大空襲で一晩一〇万人、長崎はその日のうちに七万人、そしてその年の暮れまでに一二万人の方が亡くなっています。
  ちょうど長崎に原爆が落ちる前の日、ロンドンでイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の四ヶ国の代表が集まってロンドン協定というのを決めたのです。
  イタリアは自分で裁いたわけです。自分の指導者を自分の国の人たちが、始末と言うと非常に語弊がありますが、処刑をしてしまいましたから、イタリアは除いて、ナチスドイツと大日本帝国の戦争犯罪者をどう裁くかという基本的な話し合いをロンドンでやりました。
  第一次世界大戦、さらにその前は、敵のリーダーは即刻処刑というのが決まりだったのです。勝ったら向こうの大将をすぐ殺してしまう、処罰してしまうというのが普通のやり方だったのですが、第一次世界大戦あたりから少し人権と言いますか、独裁者に人権があるかどうかというのは別問題として、そう簡単に人を殺してはいけないと。裁判で裁いてから処刑すべきだという声が大きくなりました。それで、このロンドン協定というのが決まったのです。
  決めたことは、即決処刑はやめようということです。たとえば東条英機は一応戦争を始めたときの首相ですが、それを問答無用に処刑してしまうという乱暴なやり方はやめようと。ここからが大事なんです。それまでは戦争で個人の責任は問われなかったのですが、個人の責任を追及しようということがこのロンドン協定で決まります。
  連合国のほうが何をやったかは絶対に審理の対象にしないと。このへんから東京裁判に対する批判が出てくるわけです。連合国側、すなわちアメリカが原子爆弾を二つ落としたとか、そういうことは一切問題にしない。
  連合国と枢軸国というのは、国際連盟を脱退したほうが枢軸で、国際連盟に残ったほうが連合国ということになります。
  日本は満州国を元に戻しなさいという訴えについて、国際連盟の総会で四二対一で破れ、連盟を脱退するんです。それに倣って今度はナチスドイツも脱退。それからイタリアはエチオピア問題で脱退しています。
  ロンドン協定は枢軸国の過去の行為のみを扱うことにすると決めます。簡単に言いますと、勝った側・連合国が、自分たちのことは一切裁かないようにしよう、枢軸国、つまりドイツと日本がやったことだけを裁こうと決めたわけです。
  それで、この協定にしたがってドイツではニュールンペルク裁判が行なわれる。日本では東京裁判、つまり極東国際軍事裁判が行なわれるのです。

  もう一つは、この協定で平和に対する罪と人道に対する罪というのを設けた。これは戦争が始まったときにはなかった罪状なんです。これがまた大問題になる。
  たとえばこの紀伊國屋ホールの壁に夜、立ち小便をした。これはお巡りさんに見つからなければどうってことないですね。臭いが残ったりいろいろとしますけれども、どうってことない。
  ところが今日、紀伊國屋ホールの壁におしっこをしたら死刑であるという法律を誰かが決めた場合、昨日やったおしっこを罰せられるかどうかという問題ですね。普通は法律が決まる前にやったことは審理の対象にならないのですが、このロンドン協定ではそれを審理の対象にするというふうに、明らかに国際法が変わった。よく言えば少し前に進んだわけです。しかし日本はそれを知らなかったということです。
(つづく)

ブックレット「この日、集合」(金曜日)
当時の日本の大人たちには、それぞれ責任があると思います。 より抄録